ゆっくりとした柔らかい雰囲気で始まった一曲目の「アスタリスク」
全体的にはバランス良く、少しずつ足されて行くような感じで一つまた一つと音を増やしながら曲は流れて行った。この状況を完全に掴めていない一人を除いては。友哉は狼狽しているに違いない、なんとか曲に合わせようとしているが、しっくりこない。違和感は奏者だけでは無く観客席にも伝わり始めてザワザワとした空気になっていった。
皆は思っていた不安が的中したと言わんばかりに目を細めチラチラと友哉を睨みつけている。やっぱりだ。誰もがそう思っているように見えた。クラリネットの時もそうだった。楽器が変わったからと言っても結局何も変わっていない。皆の気持ちが手に取るように分かる。俺もそんな状況を頭を抱える振りをして見つめていた。友哉は必死に合わそうとしているが、違和感が消える事は無かった。曲も終盤に差し掛かり始めた頃、友哉の目から大粒の涙が溢れていた。ドラムを叩く手を止めていないがそれはもう誰が見ても分かるほどに涙を流している
一曲目の演奏が終わった。だからと言ってもどうする事も出来ないこの状況、皆は淡々と次の曲の用意をしている。怪訝そうな表情で友哉の方を見ながら次の曲「そよ風の手紙」の準備をするしかなかった。友哉の涙は止まる事無く俯き肩を大きく震わしていた。
ザワザワとしている観客席、怒りの表情を見せる奏者達、そして俯いている友哉。小刻みに体を震わせ強く握ったスティックを両手を合わせるように縦に持ち、そのステッックの先を額の辺りに押さえつけていた。怒りを体の中に押し込めているように見えた、その時だった。
ドンと大きなバスドラムの音が聞こえた。突然鳴った低音が会場を駆け巡る。俺は咄嗟に友哉がペダルを踏み込んだのだと分かった。
ドン、ドン、ドン、ドン、ゆっくりとその音が響き始めた。音は次第に速くなりドンドンドンドンに変わり刻まれていたリズムが今度はドドドドドドと速くなる。今、何が起こっているか分からない、会場も困惑の色を見せているが、そんな事は御構い無しに刻み続けるバスドラムの音、ひとつの足からは到底生み出す事が出来ないようなスピードで一定のリズムをキープして、ふとしたタイミングで更に速度を上げる、上がった速度はまた一定に保たれ、太い低音が会場の空気を振動させた。キレのいい音の粒が俺の体に当たってくる。ドラムの事を少し知っている俺はこの音は一つのバスドラムから出せる音ではない事は分かった、ツーバスか。二つのペダルそして二つのバスドラム、友哉は両足でこのビートを刻んでいるのだ。両足はバスドラムを叩く為のペダルを踏み続け、とてつもなく早いスピードでビーターを動かしている。両足がそれで埋まっているはずなのにもう一つのペダルを踏む事によって上下に動き音を出すハイハットも一定のリズムで上下している。バスドラムは今もその速度を落とす事なくドドドドドドと鳴り響き、その間にまた違うリズムでシャンシャンシャンシャンとハイハットも鳴っている。仕組みを知っているからこそ、あり得ない音のコラボレーションに俺はあいつの左足元をドラムセットの隙間から覗いた。あいつの左足のつま先がバスドラム用のペダルへ、かかとはハイハット用のペダルへと、左足を膝から内側に向け、その左足先は前後に違うリズムを刻んでいる。この足元での神業のような出来事が会場に伝わる事は無いだろうが異常なほどのスピードで刻まれるリズムを、さきほどまでとは違い、ざわめきのあった会場も、この小気味のいい振動を楽しみ始めていた。その瞬間バスドラムの音がピタッと止まった。
一瞬の静寂が会場を包み、今度はスネアドラムから高音のタンタンタンタンとゆっくりとした音が聞こえ始めた。そのリズムもさっきのバスドラムと同じように徐々に速度を上げてタンタンタンタンだった音はタタタタタタタタになって行く。上がっていく速度はブレる事なくスピードを上げる、もうこれ以上は速くならないだろうなんて思いは簡単に消し飛び、友哉は一打で二つの音を出すダブルストロークを始めた。もうそのスピード感は中学生のそれでは無い。そんな世界に飲み込まれそうになっていた自分を戒め、ここはみんなのコンサートであることを思い出しだ俺は、これ以上自由にさせる訳には行かないと、そう思ってドラムセットに近づいた
「おい!どうゆうつもりだ!いい加減にしろよ!」
そんな声もまるで聞こえていないかのように刻まれるビート。そのビートは止まる事なく更にスピードを上げて行く。もうあいつの顔は汗でびっしょりだった、汗にまみれたその顔は俯き加減でドラムセットの方を見ていたが、焦点はドラムセットでは無く、もっと向こう側の何か見るように一点を見つめている。体は縦に揺れ、頭は小さく左右に触れている。俺の存在など相手にしていない。そう言っているように思えた
「おい! もう辞めろ! お前だけのステージじゃないんだ!」
と大きな声を出した。その刹那、涙で赤くなった目から凍りつくような視線が俺に向けられた。汗が流れ滴る顔をこちらに向け、悲しみと怒りが同居しているような目で俺を睨み、刻み続ける両手のうちの右手だけを一瞬止めて俺の言葉を制止した。するどい視線を送っている友哉が小さな声で
「いいから、待ってろ」
多分そう言った、そう言ったように聞こえた。怒りに満ちた視線に恐怖を覚えた俺は蛇に睨まれたカエルのように何もする事が出来なくなっていた。ドラムセットの前で立ち尽くし、この演奏にだんだんと飲み込まれて行く、止まる事ない演奏を。
ダブルストロークを続けながらタムを回しフロアドラムへ、タタタタタタタタとまるで大粒の雨がトタン屋根を打ちつけるように、心地よくも圧倒されるスピードで、そして変則的に変わるリズムが会場を包む、高音域を占めるダブルストロークにも負けないほどの低音がバスドラムから放出され、そのハーモニーはまるで二人の奏者がいるかのように綺麗な打音を打ち出している。上半身の揺れが大きくなって汗は飛び散り、右手にはどれほどの練習をすればこうなるのかと思うほど貼られていた絆創膏も激しい演奏によって剥がれ落ち、滲み出てきた赤い液体は真っ白なスネアドラムにも飛んでいた。水分を弾く素材で出来たスネアドラムに振り下ろされる一打で赤い水滴は振動し空中で踊り出す。
もうこの会場にいる観客だけでなく、他の23名いる様々なパートの奏者達もあいつの演奏に吸い込まれていた。怪訝そうな表情の者など誰もいない。そして皆も分かっているはず、俺だってもう気付いている。かなりアレンジされているとは言え、このドラムが何の前奏なのかを。譜面なんかは誰も持っていないがこの演奏に参加する事を躊躇しているものなど一人もいない。「いいから、待ってろ」のあの声が聞こえているはずも無いが、皆いつか来るであろうスタートの瞬間を聞き逃さまいと自分の楽器を一人また一人と構えて準備をしはじめた。
テンポは200を超えているように感じる、16ビートで回されているスティックの先は残像となり、割れるような音を鳴らすシンバルへと向かう、そのスティックの先は一瞬だけ止まったかのように見えては、また残像となる、その間もシャンシャンシャンシャンと一定の間隔を保ちメトロノームのように上下に動いているハイハットは、これだけの演奏をしている人が作り出しているとは思えないぐらいに穏やかに決められたリズムは守っていた。
何がそう思わせたか分からないが俺はこの前奏の終わりが近い事を感じた。来る!
残像のように動いていたスティックを持っていた腕が大きく持ち上がり、渾身の力でクラッシュシンバルを叩きつけた。それが最後の一打だった。本当ならば叩かれたクラッシュシンバルは余韻を残こすはずなのだが、それも許さじとあいつは左手でシンバルを押さえ余韻をも止めた。シンバルチョークの効果は絶大で、あれだけ激しかった演奏が一瞬にして無音となる、耳の奥がジーンと突き刺さるような静寂を迎える事となり、息をする事さえも許されないほどの空間がそこに出来た。静まりかえる観客席の一番奥の方で誰かが息を飲んだ。そんな気がした。その場所であいつの右腕がゆっくりとそしてまっすぐに上へと伸びていく、手の中でクルクルとスティックを回しながら、意図した訳ではないのかもしれないがスポットライトはその友哉の右手の先を捉えていたように見える。神々しくもライトに照らされたそのスティックが頂点に到達した時、クルクルと円を描き回っていたそれも真っ直ぐに上を向いて止まった。マイクを通していないあいつの声が会場のどこまで届いたか?それは分からないが俺の耳には、はっきりと聞こえた。あいつは「ウィル・ビー・バック」と言った。その瞬間、両方のスティックを俺の目の前で交差させてスティックでスティックを叩きカチっと言う小さな音を鳴らした。それが合図だった。
ドラムの次の一打で残りの23名の奏者達が寸分の狂いなく、一斉に演奏を始めた!全パートが一気に入る、この曲の一番の見せ場であるスタートを演奏の予定では無かったこの曲をあの小さなスティックの音だけで合わせた。それと同時に俺の後ろの観客席から大きな歓声が上がった。本当ならば演奏中の歓声などあってはならないのだが、そう言ったルールやモラルなどを並べる事さえも小さな事と思えるほどの素晴らしい出だしだった。
前奏のドラムソロと一斉に奏でる「ウィル・ビー・バック」の出だしの素晴らしさが観客を唸らせ、歓声と拍手は更に大きくなってきたが、それを押し返すほど力強い演奏がその歓声を跳ね返す。あまりの衝撃に持っていたタクトを落とした俺はそれを拾う事も出来ずにただそこに立ち尽くしていた。何かに取り憑かれたようにドラムを叩き続ける友哉、それに共鳴するかのように演奏している奏者達もまた、会場の奥の何かを見つめ誰に惑わされるでもなく、誰に合わせるでもなく友哉を含んだ24名が協では無く個の演奏をぶつけている。それなのに乱れる事の無いの個々の音は大勢に紛れているものなどいない、あの大勢のクラリネットでさえ一人一人が輝き、自分はここにいると主張せんばかりの音を出していた。そう俺と康介を省いた24名の狂気の共演が今ここで行われていた。
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誰もいない吹奏楽部の部室、誰もいない学校、一年に一度、学校にとっては穏やかな年末年始も過ぎ、冬休みを超えたこの場所にまた活気が戻り始めた3学期、分厚いコートやマフラーで体を覆った生徒達が登校している。初日の顔合わせ程度の行事を済まして、吹奏楽部の皆もいつもの部室に顔を揃えた。年末の合奏コンクールも終え、新年になっての最初の練習。琴美の形式張った挨拶も済み、新しい曲の練習が始まる。それぞれに楽器を鳴らし始めた横で一定のリズムを保ち綺麗なビートを刻んでいる友哉がいる。曲名の事はあれからも友哉に触れられた事はない。ただオータムコンサートが終わったそのあとに「今日はありがとう」と俺に向かって頭を下げただけだった。俺は友哉をドラムに抜擢した事を皆から褒められ、副部長は見る目があるなんて言われる事となり、すべてにおいて友哉に負けた事を悟った。誰の邪魔にもならないような絶妙なリズムを演奏し続ける友哉の反対側。一番廊下に近い場所、そこで康介が一生懸命クラリネットの練習をしている。窓際に陣取るドラムセットの奥にあるガラスケース。そこに飾られたトロフィにはこう書かれていた。
『第47回 全国合奏コンクール 金賞 演奏曲 ウィル・ビー・バック』
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