ガラスの向こうを流れる水を見ていた。
そこに映る私の顔は赤く腫れている。泣いているように見えるのはそのガラスの向こう側のせいだ。焼けるような痛みに歯を食いしばりそれが流れぬように……
「泣いてるのか!」
泣いてない!その返事を待つ事なく、大きな手のひらがその痛みを帯びた頬に飛んできた。そして腫れ上がった頬に割れるような激痛が走った。
その夜もまたいつもと同じようにストレス解消の道具とされていた。
見た目が変わるほど叩かれた次の日は学校に行かせてもらえない。
何度も助けを求めようと思った。でも、もし助けてもらえなかったらどうしようと考えると、この事を話す事が出来なかった。
見た目が分かりにくくなれば学校には行ける。私は出来るだけ長袖、長ズボンを履いた。赤く腫れ上がっている場所は顔だけじゃなかった。
時々、先生が言う
「だいじょうぶか?」と……
無理に唇を持ち上げて笑って見せた。
「うん、だいじょうぶ」
この事を知っている訳ではない。家庭環境が大きく変わった私を、休みがちな私を気遣ってくれていたのだと思う。大人が怖いと思い込んでいた。先生を信用する事が出来なかった。いや、話した事がお父さんにバレる事が怖かったのかもしれない。
毎日、お父さんの怒りに触れぬよう、息を潜め部屋の隅にある小さな机に向かって過ごす。それでも、何の前触れ無く、突然始まる。私はすぐに立ち上がり、窓に向かって歯を食いしばる。絶対に泣かない。絶対泣かない。泣けば・・・・・・更に・・・・・・酷くなるからだ。
そしてとにかく謝った。とにかく……
その暴力が終わった後は何も言わず、すぐに小さな机に向かって
「ごめんなさい」とノートに書き続けた。
お母さんが亡くなってから半年、学校に行く回数も減り、ボロボロになったノートにごめんなさいと書きつづけていた。人との関わりも少なくなった。関わりたいとも思わなかった。自分が何の為に生きているのかも分からなくなっていた。とにかくお父さんに怒られない為、殴られない為に・・・・・・それを考える事が生きる目的となっていた。
謝り続ける事で何故だか安心感が生まれる。ごめんなさいと書いた数だけ、叩かれなくて済むのではないだろうか?もし謝らなければ、もっと叩かれるのではないだろうか?
もっと書こう、もっと謝ろう。
私はペンを持ち、震える手と溢れそうになる涙を堪えて、ごめんなさいと書いた。
お父さんが寝静まった夜。私は頬の痛みと熱で眠れない。
そして明日、学校に行くことは無い。こんな顔だから・・・・・・
時計の針が零時を過ぎた時から私の時間が始まる。
窓を少し開けて外の冷たい空気を吸った。街は誰も居なくなってしまったように静まり、まるで別の世界にいるようだった。
冷たい風は私の頬を冷ましてくれる。そして夢の国へ行くかのように隅の小さな本棚へ向かった。そこでボロボロの絵本を取り出す。
小さな頃、お母さんがいつも読んでくれた絵本。もう表紙は折れ、中も破れているけど、この絵本が私の唯一の楽しみだった。
静まり返ったこの時間。別の世界で母の声を思い出しページをめくる。
動物達が暮らす森の中、そこは揉め事が絶えなかった。ライオンさんとシカさんでは話が合わない。優しいゾウさんが仲裁に入ってもオオカミさんは言う事を聞かない。そんな森の中に一人の仙人様が現れる。キラリと光る坊主頭、額にはいくつものシワが波打つように並び、どこまでも垂れた目と大きな耳たぶからは優しさが溢れていた。
仙人様はオオカミさんの背中に手を当てて落ち着かせ、シカさん話を何度も聞いてはライオンさんと笑顔で話す。困っている動物がいれば、そこに行き声を掛ける。怒っている動物がいれば何度でも話を聞いてはウンウンと頷き諭していく。
いつしかその森はみんなが笑顔で暮らせる森になって行くと言うお話。
怒っている動物が出てくると私は顔をしかめ、その動物が笑顔になればお母さんの顔を見て笑った。お母さんもその時はページをめくる手を止め私を見て笑ってくれていた。そんな記憶が蘇ってくる。
あんなに耐えているのに・・・・・・
あんなに頑張ったのに・・・・・・
首を横に振り天井を見て目を閉じた。涙が溢れそうだった。
お母さんの声は今も私に語りかける。動物達の言葉、仙人様の言葉。それがすべてお母さんの言葉であるように思えた。長い長い夜、何度も何度もお母さんの声を思い出し涙を堪えた。そして穏やかな眠気に包まれるまでその別の世界を私は過ごしてた。
二週に一度くらいのペースでお出かけの日がある。お父さんは私を連れ、隣町のスーパーへと車を走らせる。二十分ほどの道のりだった。私の役割は分かっている。お酒の買える本数が変わる。ただそれだけの事。
助手席の後ろに座り、外の景色を川の流れのように眺めていた。お父さんは何も話さず車を走らせている。でも今日はいつもと違った。
ほとんど止まる事の無い、車の通りの少ない道。窓の外の景色は意識を持たない景色だった。その景色がまるで一枚の絵画のように私の目の前でピタリと止まった。
どうしたのかな?と思ったと同時にその中にそれを見つけた。
「あれって……」
お世辞にも立派とは言えない小さな門。見た目にお寺である事は分かった。
「……寺」
漢字は難しくて読めなかった。でも気になったのは読めなかった事では無い。
その門の横に続く白い壁。その壁一杯に大きな看板がありその看板の半分くらいを占める場所にあの人がいた。いやあの人の絵があった。
どこまでも垂れた目と大きな耳たぶ……
見たことある、あの顔
キラリと光る頭に波打つようなシワ。
「せんにんさま……」
私はまぶたを押しつぶすほどの力で目を閉じた。夢?幻覚?でもあれはたしかに仙人様だった。間違いない。大きく息を吐き、そして目を開けた。
「何か言ったか?」
お父さんの声に慌てて前を向いた。そしてバックミラー越しにこちらを見ているお父さんに
下唇を噛んで首を横に振った
「ううん」と声に出さず小さく否定した。
別の世界じゃなかった。現実なんだここは……
この道の先で起こっていた何かは解決したのだろうか、長い間止まっていた車が動き始め、それと共に一枚の絵画だった窓の外は、また流れる川のような景色に戻っていった。
ここは現実。でも仙人様の絵はいったい……
不規則で意思の無い景色から何も感じる事は無かった。だけど一枚の絵画のようなあの場所を見た私は、その規則ない川の流れから一筋の線を見つけようと目を凝らしはじめていた。情報の得ようとした目には辞書を逆さまにしたのかと思う程の言葉が飛び込んで来た。自分が読める漢字は言葉として覚え、読めない漢字はそれを絵として記憶した。
家に着いてすぐ私は記憶した言葉、「〜商店」や「〜建設」と言ったものさえも大切に記録した。もしこの世界にもう一つの世界があるとしたら、あの仙人様がいる場所があるとしたら……
もしかすると……
そんな想いが私の心の中で膨らんで行った。
日が沈むのを待たずに厚い雲が光を奪い始めた。
雨が降る夜は、お父さんの機嫌が良くない。それを思っただけで頬がズキズキとする。まだ赤く腫れている頬。
「もう怖いよ」
窓の外の明かりは厚い雨雲に奪われ、その雨雲は恐怖をも連れてくる。
その恐怖に負けないようにとボロボロの絵本を開き、胸の辺りをドンドンと叩いた。恐怖を減らすおまじないだ。そしてその横に今日書いて来たメモを並べた。
夜が深くなれば、またあの……。
開いた絵本のページは仙人様が最初に現れたページだった。そのページの言葉が私の何かを動かした。
「大丈夫じゃ、わしがなんとかしよう」
共存が限界だった森の中。そこに現れた仙人様は額のシワを目尻まで落としニコニコそう言った。
私も助けて……
窓の外は雨、この窓を乗り越えたら裏庭に出れる。分かってる。今までは行く所がなかった。でも今ならあの場所に行けるかもしれない。
トイレに行くふりをして玄関にあった昔の古い傘を持った。お父さんに見つからないよう足音を忍ばせた。
ギシっと軋む廊下を恨む。手に持ったプラスチック製の真っ黄色の傘はお母さんに買ってもらったものだ。まだ保育園に行っていた頃の傘、十歳の私には不自然だけどそれしかなかったし、なによりこの傘を持って行きたいと思った。
部屋に戻り、ホッと胸を撫で下ろした、大きく暴れる呼吸を整え、腰の高さ程の窓側に立つ。
お父さんに見つかる前に。その思いは秒針が動く度に強くなる。小さなリュックに絵本を入れ、真っ黄色で昔のキャラクターが書かれた傘を握りしめた。
大丈夫……と微かな声を発して私は窓の外へ飛び降りた。外の高さも自分の肩ほどまでの高さ。ぬかるんだ泥は私の足元に襲いかかってきたが、そんな事は気にならない。小さな傘を広げ、多分こっちだと思う道を走った。
こんな夜に一人で外を歩くのは初めてだ。それに加えてこの雨。先の見えない不安が雨と共に襲ってくる。なんとなく分かる道を歩きポケットの中で握りしめていたメモを開いて目印を探そうと周囲を見渡した。明るい時間とはまるで違う景色だった。目印を探さないと、そう思う気持ちと焦りで傘はその意味をなしていなかった。雨は容赦なく私を打ち付け、心が破れそうなほど苦しくなってきた。
探さなきゃ……
一歩ずつ踏み出す足に履いた靴は泥の上に雨を吸い、足先は痛いほど冷たい。
もう行くしかない。遠くに光る看板に目を凝らし細めた。
「あれだ、あの看板だ」
おもわず声が出た。すぐにポケットへと手を入れメモを見た。間違いない。
何もない暗闇のフレームに明るいピースが一つはまった。まるでパズルのように。
これでいいんだ。このピースを一つずつ。そう思うと先の見えない不安が薄れた気がした。
次はこっちだ。その判断に自信が出てきた。一つの目印を見つけた私の足は軽く、大きな道を右に曲がった、その時、眩しい光が私をさした。
目のレンズがグゥーっと動くのが分かった。
クラクションの音とその眩しい光はすぐ横をものすごいスピードで駆け抜けていく
自動車は走り抜けたあとの水しぶきを受け、未だドキドキしている心臓をなだめるようにさする。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせ、歩道の端で大きく息をした。
その時ふと思った。今まで何度もすれ違っている車。私からはライトしか見えていないけど相手からは丸見えなんだ。私を知っている人ならお父さんに連絡するかもしれない。もし知らない人でも、話しかけられたら、こんな時間にそのまま行かせてはくれないだろう。私は誰にも見つかってはいけないんだ。いやそれだけではない、もしかするとお父さんは私が部屋に居ない事に気付いているかもしれない。そう思った瞬間、怖くなり咄嗟に建物の陰へと隠れた
どうしよう……
どうしよう……
両手で持っていた傘の柄。その柄の部分にお母さんと一緒に撮った写真シールが貼っていた。
「お母さん、どうしよう……」
その柄を強く握った。
「行くしかない。ここにいてもお父さんに見つかるかもしれない、でも大通りは歩けない。だったら車の通りの少ない裏道を行こう」
私はお母さんと一緒なんだ。そう思って前を向いた。
「お母さん。仙人様がいたんだ。私、今日は仙人様を見たんだよ。きっとこっちだ。ちゃんとメモもしたんだよ」
声を出すと元気になれた。まるでお母さんが「うん、うん」と頷いてくれているように思えた。
お母さんの写真をギュッと握り、右手で自分の胸をドンっと叩いた。「よし」っと出した気合も長くは続かない。足先に染み込んだ水は私の足の感覚を奪い、全身から体温を抜き取っていく。強くなってきた雨も体の外から更に体温を奪おうと容赦なく打ち付ける。深く差した傘で自分の体を守る。体を庇えば庇うほど視界が悪くなって行く。でもそれを気にするほどの元気はもう残されていなかった。それほどの距離を歩いていた。
あれは夢だったのかもしれない。仙人様は絵本の中の人なんだ。いつしか視界は足元だけを捉えていた。いやその足元を見ていたかどうかすら分からなかった。戻ることなんて出来ない。いや、戻るぐらいなら・・・・・・あの場所に戻るぐらいなら・・・・・・歩幅はだんだんと小さくなり、ほんの少し前まで振り絞っていた元気と歩幅は比例して小さくなり、そしてそれはなくなってしまった。
「もう無理かも・・・・・・」
ただ雨に打たれた黒色の道を見て、握っていた傘の柄に「ごめん」と呟いた。頬を伝ったのは濡れた髪から流れたもので涙ではなかった。泣く事は怖い事だから・・・・・・
私の体にはもう一歩を踏み出す力も気力も残されていない。まるで電池が切れてしまったおもちゃのようにその場に立ち、ただ黒色の道を見ていた。そんな時、視界の僅か端の端がぼんやりと白く見えた。
「え!?壁・・・・・・」
振り絞った気力でゆっくりと見上げたその場所に、あの一枚の絵画の小さなお寺があった。壁に貼られた看板には、やはり読めない漢字の・・・寺とあって、その横にはツラツラと言葉が書いていた。
生きる事に疲れてないですか?
生きて行く道には光が輝く時もあれば、また闇に包まれ道に迷ってしまう事もあります。人は光に当たると同時に影も出来てしまいます。歩む道には上り道も下り道もあって、時に倒れてしまう事もあるでしょう。怪我をしてしまう事もあるでしょう。でもあなたは一人じゃない。ここまで来た。この・・・寺まで。もう大丈夫。さぁその横にあるインターホンを押して下さい。私はいつでもあなたの味方です。あなたが苦しみながらもこの・・・寺を訪ねてくれた事に感謝します。ありがとう。 住職
住職と書かれている横には大きな大きな仙人様がいた。ニコニコと笑った笑顔でこちらを見ている。まるで今の私に向かって書かれているようなその言葉に
「辿り着いたの?お母さん」
持っていた傘に問いかけた。
その問いに答えるものはいない。しかし不思議な感覚が辺りを包み込んだ。このインターホンを押していいのだろうか?ここはただのお寺。この似顔絵は私が勝手に仙人様と決め付けているだけ、私がこのインターホンを押しても、きっとお父さんのところに返されるだけ。ここは現実世界で、私が思っている世界じゃない。インターホンを押せない時間が過ぎていく。もう戻れない。でも進めない。そして・・・・・・押せない。
「大丈夫じゃ、わしがなんとかしよう」
それはお母さんの声だった。いやそう思っただけかもしれない。でも今はそう聞こえた気がした。家を出る勇気をもらった言葉。ページをめくり困り果てていた動物達、私もお母さんの顔を悲しい思いで見ていたページ。お母さんはいつも私の目を見て大きく声でそして少し低い声で言った言葉。そうこの言葉を。
私の人差し指はしっかりとインターホンを押していた。
「はーい」
ドクンと体の中が振動した。声が出ない。インターホンの向こうから呼びかける声は続いていて、私は傘を更に深く差した。どこか遠くで足音が聞こえるバタバタと走るような足音。それがこちらに近づいている事が分かった。もう逃げる事も出来ない。声も出ない。怖い・・・・・・
看板の横の門が開いた。両手で強く握った傘を盾にすべての視界を遮り顎に力を入れうつむいた。
目の前にいる。誰かがこの目の前に・・・・・・体は震え声も出ない。
「どうしたの?」
薄茶色のサンダルが見えた。そのサンダルに差し込んでいる足は裸足だった。
「どうしたの?」
二回目のその声の時、その人は屈んで私を覗き込もうとした。怖くなった私は傘を更に深く立て、その傘に隠れるように身を小さくした。
少し身を引いたそのサンダル。その人が大きく息を吸ったのが分かった。
「ゆっくり待つから話したくなったら話して。もう大丈夫だから・・・・・・」
まだ身を小さくしたまま、でも傘を持つ手が緩んだ。張り詰めた体の糸も緩み、ふと声が出た。
「明日・・・・・・晴れるかな・・・・・・」
その人は音もなくスッと私に近づき傘の先を持った。そしてその傘を持ち上げた。傘を立ち上がり私とその人との壁は無くなった。
大きな手が頬に近づくのが見えた。緩んでいた手に力を戻したが手遅れだった。
視線は感じたが相手を見れない、その一瞬の間に大きな手のひらが私の頬に触れた。
「強い雨に打たれたんだね。よく頑張ったね」
その言葉には手のひらと同じかそれ以上の温もりがあった。次の言葉に一瞬つまったその人。
「ごめんね……今まで・・・・・・見つけて……あげれなくて」
そう言ったように聞こえた。私の頬にやさしく触れていた手に力が入り、ゆっくりと上へと促された。抵抗する事もなく私の顔は自然と空を向く。
「大丈夫。明日はきっと晴れる。もう雨はあがった」
その声には涙が混じっていた。
重く広がっていた雲の隙間、僅かな光があった。きっとあの雲の向こうに月があるのだと分かるには十分だった。
「本当に申し訳ない……」
今まで見る事を恐れていた。その人の顔を見た。
額にはいくつものシワが波打つように並び、どこまでも垂れた目と大きな耳たぶ。ニコニコとした表情ではなかったが、その人はそう言った。
髪から流れていた水が頬で涙と合わさったのが分かった。咄嗟に歯を食いしばってみたが涙は止まらなかった。住職の、いや仙人様の大きな手。親指がその涙を・・・・・・
「泣いてもいいんだよ」
そう言った仙人様は私の目をしっかりと見てウンウンと頷いた。
そして小さな声で「本当に申し訳ない……」と言った。
これが現実の世界でも別の世界でもいい。私の生きる場所はここにあったのだと思った。そして今度ははっきりと仙人様の、いや住職の顔を見て、さっきより大きな声でもう1度聞いた・・・・・・
「明日晴れるかな・・・・・・」
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