秒針の進む先へ

夜間の病院の廊下は広く長い、一歩踏み出せば聞こえる足音も壁に当たり跳ね返ってくる。

廊下に並べられた長椅子に座り、目の前にある銀色の扉をただずっと見つめていた。

落ち着かない心は体も同じ場所に留めて置けない。立ち上がっては歩き、歩いては止まる。そしてまた長椅子へと腰をおろし、銀色の扉を見る。ICUその大きな文字の下に小さく集中治療室と書かれている。冷んやりとしたコンクリートの壁、無機質な扉。その扉の向こうからは不規則な電子音が鳴り響き、その電子音はどこまでも続く薄暗く長い廊下の壁を跳ね返り、まるで電子音に囲まれているような気がした。

 

結愛(ゆうあ)は、3日ほど前から体調を崩し熱が出ていた。真希が病院に連れていったのが2日前、風邪だと言われ、いくつかの薬を貰っていたが、状態が良くなる事も無く今日の夜、結愛の呼吸が浅くなり顔は肌色とは言えないほど白くなった。慌てて救急車を呼び、この総合病院へと。救急車の中での結愛は額に汗が吹き出し、小さな胸を大きく動かして、息をする事が精一杯のように見えた。

救急車から降りる私と真希。そこに看護婦さんが駆け寄ってきた

「すみませんがお子さんのお名前と生年月日を教えて下さい」

すっと真希の横に並びメモを取ろうしている看護婦さんに

「坂本結愛 平成27年5月25日生まれの3歳です」

きちんと伝えた。でも真希はこれを言う事さえも限界だと感じるほどパニックになっている

 

まだ何かを失った訳じゃないのに、漠然とした不安が心を支配して、抑えようとしても溢れてくる涙を止める事が出来ない。私でさえその状態、真希はもうその時は平常心ではなかった。ストレッチャーに乗せられて処置室へと結愛は運ばれて行く。それを追いかけて

「結愛、結愛」

声を掛け続ける。処置室の前まで来た時に

「お父さんとお母さんはここでお待ち下さい」

こんな状況で、こんな状態で引き離されるなんて、心臓を握り潰されるような苦しさが身体中を襲う。慌ただしく出入りする人達を見て、事は重大なのだと勝手にそう感じていた。私達はもうこの場所で待つしかない。さっきの看護婦さんはカルテのようなものを手に持ったまま、真希の横に膝をついて座っている

「お母さん、少しでもいいので結愛ちゃんの家での状況を教えてもらえませんか?」

真希は大きく深呼吸をして、ぐちゃぐちゃな時系列で家での出来事を話していた。

病院の待合室に掛けられた時計は家のリビングにある時計とよく似ていた。その時計は23時を指している。人前でこんなにも泣いた事は無かった。ただ結愛の苦しそうな顔を思い出したら胸が締め付けられて、また涙が溢れてくる。

真希は泣き疲れたか、憔悴しきった様子で処置室の方を見ている

もし結愛に何かあったら、もし結愛に・・・・・・

最悪の事態も想定しておく。どんな時も私はそのように生きてきた。でもそれは想定する出来事が自分の受け入れられる範囲であるのが前提で、この状態での最悪の事態は受け入れられるものでは無い。今、自分に出来る事がないのが本当に悔しい。

結愛が処置室から出てきたのが0時前だった。小さな体に沢山の管が付けられベッドと一緒に大きな機械も出てきた。その後ろを歩く先生らしき人が

「一命は取り止めました。今は人工呼吸器で維持しています。ただ今も危険な状態なので、このあとICUで様子を見ます」

淡々とした説明があったが何故こうなったのか今は分からないと言う事だった

「お父さん、お母さん、結愛ちゃんは非常に危険な状態ですので、もしICUで急変した場合は私達に処置を一任して頂けますか?」

咄嗟の質問に意味を理解する事も無く

「よろしくお願いします」

と私は言った。横にいた看護婦さんが書類のような物を出して、内容を確認して名前を書くように促された。

 

ICUには一人だけ付き添いに入れるらしい、真希が付き添うと言ったので私はそのICUの外の廊下で待つ事となった。

夜間の病院の廊下、きっと平常心ならこんな不気味な所なんて思うのだろうが、今はそんな感情は全くない。ただ結愛が無事である事を祈るだけだった。時間が暴れていた心を沈めてくれるものの、それがいつものような平常心に戻る事は無い。焦燥感が湧いては立ち上がり時折長い廊下を端まで歩いて、最初いた待合室まで行く。真希と一緒に座っていたその場所に一人で腰を下ろす。白い縁に緑の文字盤。大きく書かれた12個の数字。秒針が動く度にカチカチと音が聞こえる。そんな時計は2時を指している。先生の言う非常に危険な状態は一体いつまで続くのだろうか? 中に入った真希とも連絡は取れない、こちらから入って行く事も出来ない。今、どんな状態なんだろう。結愛に会えない時間が不安を煽り、また落ち着かなくなる、もと来た廊下を戻りICUの前まで来ると、そこにある長椅子に腰を掛ける。

遠くの方で誰かが歩いている足音が聞こえる、そして扉の向こうからは不規則な電子音が複数鳴っている。その状況に慣れてきたのか、緊張し続けていた体をその長椅子の上に倒し横になった。不規則な電子音も遠くなり、体がその長椅子からフワフワと浮き上がり離れてしまっているように思えた。電子音は更に遠くなり聞こえなくなった。

 

「パパ、パパ、いつまで、そんなソファで寝てるの」

ぼんやりと私の目に映ったのは制服を着た高校生ぐらいの子

ん? 誰だろ?そんな事を頭の中を通り過ぎたが言葉にはしなかった。ただそのソファが置いてあるこの場所は家のリビングだ。その高校生は私の家のリビングにいた。

ソファの前にはテレビがあって、そのテレビの横には大きなスピーカーがある。間違いない、ここは私の家だ。あの子は?彼女は一体誰?

「ねぇーパパ、眠気覚ましにコーヒーでも飲む?」

パパ? どうゆう事。病院にいたはずなのに、今、家のリビングにいて目の前には私をパパと呼ぶ高校生がいる。私の頭の中はまるでカバンの中で絡まったイヤホンコードのようにこんがらがっていた。解けない問題を考え続けても仕方がない。そう思った私はソファから振り返りキッチンにいる彼女に

「君は?」

「君ってなによ」

「あ、いや、もしかして結愛?」

「当たり前じゃん!寝ぼけてんの?」

キッチンでコーヒーを入れて私の所まで運んできた

「はい。寝ぼけざましのコーヒーね」

「私は何か変な夢を見ているのか?」

テーブルの上に置いてくれたコーヒーを手にとった

「見ている? じゃなくて見ていたでしょ。寝てたんだから。ねぇどんな夢見てたの教えて」

悪戯に私の顔を覗き込んだ彼女は、そう言えばなんとなく結愛の面影がある

私は今の記憶の話をした

「結愛が3歳で体調を崩して病院へ運ばれた。命の危機だと医者に言われて、今ICUで病気と戦っているんだ」

「え!? 私が?3歳で命に関わる病気と戦ってるって?」

覗き込んでいた体を引いて驚いてみせた彼女は私の横のソファに座って壁に掛けられた時計を見た。

「そっか、じゃー私頑張ってるんだね。ねぇパパ、あの時計を見て」

リビングにある大きな時計白い縁に緑色の文字盤、カチカチと小さな小さな音を立てて1秒を進んで行く

「私は生まれた時からあの時計と一緒に進んできた。私は小さな頃から病気がちで何度も何度も入院するんだ。迷惑掛けてごめんね。でも何度入院しても必ず元気になって帰ってくる。そして今日もあの時計と共にこの部屋で私は生きている。今まで何度も、もしかしたらダメかもなんて言われてた事もあった。そんな時でもいつも心配そうにしながらも私の横で大丈夫。頑張れ頑張れって言ってくれるの。パパもママも! 私ずっとその声聞こえてたよ。だから頑張れた。今は3歳なんだね。じゃ私が一番最初に心配を掛けてしまった時かな? これからも何度もそんな事あるけど、いっぱい心配掛けるけど、ごめんね」

「今も3歳の私は頑張ってるんでしょ!でも私は大丈夫、ずっとそばで励ましてくれているママがいるし、きっとその部屋の外の廊下ではパパが応援してくれている」

反動をつけて立ち上がった彼女は

「見てパパ、私は今18歳!めっちゃ元気! パパとママのお陰だよ。だからもう心配しないで、ね」

 

ハッと目が覚めた。冷んやりとするコンクリートの壁に不規則に聞こえる電子音。夢か。

夢だったんだろう。私はここで寝てしまっていたのかな。どれくらいの時間寝てたのだろう。私は時計を見るためにあの待合室へ行った。待合室の白い縁に緑の文字盤の時計は2時を指している。

そわそわと風が抜けたような気がした。あれから時間はほとんど経っていない。

そうか結愛が私に心配ないと、信じろと教えに来てくれたんだ。

分かった!私は結愛を信じる。

結愛が入れてくれたコーヒーを飲みかけていた事を思い出し、暖かい缶コーヒーを二つ買った。そして、あのICUの前に戻り銀色の大きな扉を見つめた。

その瞬間、その扉が開き真希が出てきた。

真希の目は赤く腫れ上がり頬を濡らし首を小さく横に振りながらこちらに歩いてきた

「どうした!」

「ううん、もう結愛が可哀想で見てられないよ」

ボロボロになっていた真希が更に堰を切ったかのように大きな声で鳴き始めた

「もう見てるのが辛いよ、機械の音が変わるたびに怖くなる」

そう言って私に抱きついてきた

「そうか、うんうん、よく頑張ってくれたね」

私の胸元に顔を埋めている真希の頬に暖かい缶コーヒーを当てた

「あったかいだろ。可笑しな事言うけど、このコーヒー結愛がくれたんだ」

さっきまで壊れるほどに泣いていた真希が私の顔を不思議そうに覗いた

「なんかその覗き方、結愛にそっくりだ。いや、なんでもない」

私は真希の両肩を持ってはっきりと大きな声で言った

「約束するよ。結愛は大丈夫!」

涙で濡れたその顔をほんの少し緩ませて真希は微笑んだ

「うん!」

真希は涙に濡れながらも微笑んだ顔で小さく頷いた

「ありがと、付き添い変わるよ。今度は私が応援してくるから、結愛のコーヒー飲んで待ってて」

当直の看護婦さんに事情を説明して、付き添いを交代させてもらう事にした。

銀色の大きな扉が開く。今まで遠くから聞こえていた電子音がすぐ近くで鳴っている。

そんな不規則な電子音も今は何も怖くない。そう、絶対大丈夫。

 

転落防止の柵が両サイドにある。転落出来るほども動く事が出来ない結愛には沢山の管が付いていて、時々、機械からは大きな電子音がなる。赤いランプが点滅したり、表示されている数字が動いたり、結愛と会えない時間の方が不安だと思っていたけど、ここにいる方がもっと辛かったかもしれない。

私はベットの横に座り、転落防止柵の隙間から手を伸ばし結愛の手を軽く握った。

その手にも何かの数値を図るセンサーのようなものがついていたが、それでも構わずにもう一度、結愛の手を握って小さな声で話しかけた

「結愛、会いに来てくれたんだね。もうパパもママも大丈夫。結愛も大丈夫」

結愛の顔を見て、そして元気な彼女の顔を思い浮かべた。

「病院の待合室の時計がうちのリビングの時計に良く似ているんだ、結愛の人生の時計もまだまだ止まる事は無いよ。そう結愛が言ってたよ。だから一緒に頑張ろう」

握っていた手をそっと離して、私は立ち上がり、結愛の髪を撫ぜた。少し汗の滲んだ額に手を当て

「大丈夫!大丈夫!」

と話しかけた。大きくなった結愛の声で

「うん!私は大丈夫!」

とそんな声が聞こえた気がした。私は少し微笑み掛けて、横にあった椅子に座り、ゆっくりと目を閉じた。

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

 

正面にあるテレビ、その横には大きなスピーカーがあって、その上に白い縁で緑の文字盤の時計がある。その時計はもうすぐ15時を指そうとしていた。

「おやつにしようか」

真希の声に反応した結愛がこちらに向かって走ってきた。

「パパ、おのみものは、なににしますか?」

「そうだな、じゃーコーヒーをもらおうかな」

「コーヒーですねー」

そう言った結愛はおもちゃのコーヒーカップを取り出しコーヒーを入れる振りをしてテーブルに置いてくれた

「はい、どうぞー。コーヒーですよ」

「ありがと」

「ママー、ママはなにがのみたいのー?」

走ってキッチンに向かう結愛

これから、きっと何度も大変な事が起こるのだろう。でも今ここに結愛はいる。そして15年後の結愛もここに元気にいるんだ。

何も心配はいらない。あれは夢じゃなかったんだと私は、今の結愛を。そして15年後の結愛を。信じている。あのリビングの時計はずっと私達を見守ってくれているんだと・・・・・

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石橋を叩いて壊す。渡らなければ怪我はしない。そんな生き方をしてきた私が、何を思ったのか新しい事にチャレンジしてます。いつか短編小説を本として出したいと言う目標を持って小さな一歩を踏み出しました。パソコンが得意では無く、もちろん物語など書いた事がない私がブログ書いて行こうと思います。